· 

第154回 失われた者への愛

聖書=ルカ福音書15章1-7節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

 ルカ福音書15章から、イエスが語られた神の愛…どんな罪よりもはるかに強く広い神の愛についてお話しします。イエスは、この章で、3つの例え話を用いていますが、これを語った理由と状況を理解しておかねばなりません。当時のユダヤ社会では、食事を共にすることは仲間であることを意味していました。ファリサイ派や律法学者からすると、徴税人や罪人と食事することは考えられません。「徴税人」は、ユダヤの富をローマに引き渡す売国奴、税金を口実に懐を肥やす知的強盗と見なされていました。「罪人」は、職を持たないで生活する遊興の徒、やくざ、遊女です。ユダヤ社会から爪弾きされていた人たちです。

 そんな人たちがイエスの周りに集まり、イエスも彼らが来るのを拒まなかった。むしろ、積極的に仲間として受け入れました。弟子の中に元徴税人がいます。イエスはユダヤ社会から爪弾きされた人たちと交わり、食事をし仲間になったのです。ファリサイ派、律法学者には理解できないことで、彼らは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難したのです。

 それに対して、イエスはユダヤ社会から爪弾きされてきた人々を仲間とし、食卓を共にする理由を「例え」でお語りになったのです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、…」。

 パレスチナで羊を飼うことは容易なことではありません。灌木が生え、危険な荒地も多い。山犬やオオカミも出没する。「羊」は弱い動物で、巣に帰る能力が乏しく迷ったら迷ったまま。武器になる角も牙もない。兎のような耳も速い足もない。敵が来たら簡単に餌食になる。この弱い羊が人間です。人間は羊のように弱い存在ではないかと、イエスは語っているのです。

 百匹の羊を持つ人が、羊を野に連れて行き、夕方に連れ帰るため羊を呼び集めます。1匹足りない。数え直しても足りない。あなたが羊飼いだとしたら、こんな時、どのように判断し処置しますか。99対1です。夕闇が迫ってくる。1匹は惜しい。しかし、1匹のため99匹を危険にさらすわけにはいきません。多数を犠牲には出来ない。来年になれば新しい羊も生まれる。99匹を大切にしよう。損害を出来るだけ小さくするのが得策です。

 ところが、この羊飼いはまったく違う対応を取りました。99匹をそこに残したまま、「失われた1匹」を捜し回ったのです。そして、イエスは「こうしないだろうか」と言われた。これが当然ではないかと言われたのです。実は、これは「99対1」という経済の問題ではないのです。この例えを経済的な視点から考えれば、そんな馬鹿なことはないと言っていい。

 しかし、これは経済の問題ではなく神の愛の物語です。ここで、イエスが語りたい第1点は、失われた羊の絶大な価値です。取り替えがきかない。「1」に決定的な重さと意味がある。羊は、わたしたち人間で、一人は取り替えが出来ない特別な意味と重さを持っています。残りの99匹も一つひとつなのです。神は取り替えできない固有の存在として扱って下さいます。

 持ち主のところから失われるとは、神と人間の関係を示しているのです。神によって造られ、神と共に生きるべき人間が、神を離れ、神の前から失われいる状況です。人間の本当の惨めさがここにあります。惨めさは、病気や貧乏のようなものではありません。神から離れていることこそ惨めさの根源なのです。自分勝手に生きることが正しい道だと信じ、サタンの声を正しい導きだと思い込む弱く愚かな存在です。

 イエスが語る第2の点は、神は失われている一人を愛し、徹底して探し求めることです。ここに神の愛があります。聖書の神は、最初から失われたものを訪ね求める神です。罪を犯したアダムとエバを訪ね「あなたは、どこにいるのか」と、問いました。その時から、神は失われたものを訪ね求める神となられたのです。1対99の問題ではありません。神は、はじめから一人の罪人を捜し求める神なのです。

 ですから、イエスは「探し求めないだろうか」、「探し回るのが当然だ」と言われたのです。この例えは失われたものを訪ね求める神の愛の物語です。失われたものに価値を見出し、探し求めてくださる神が主題なのです。イエスご自身、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。失われた羊を捜し回って、ついに見出し、喜びに溢れる羊飼いとは、イエスご自身です。わたしたちは今、イエスによって見出され、神の元に回復されているのです。