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第103回 イエスの律法主義・形式主義への攻撃

聖書=マタイ福音書15章1-9節

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」

 

 主イエスは、ファリサイ派の律法主義を徹底的に批判しました。主イエスの律法主義批判をしっかり受け止めて、今日のわたしたちも律法主義、形式主義に陥らないように警戒したいものです。律法主義・形式主義は、生真面目に生きようとする人の陥りやすい問題なのです。律法主義は、決して過去のユダヤ教ファリサイ派の問題だけではありません。神から離れた人間の欺きなのです。一見、敬虔に見える。一見、宗教的に見える。一見、真面目に見える、適法に見える。しかし、その根底にあるのは自己中心です。「神」や「法」を隠れ蓑にした自己中心が律法主義です。イエスは、この律法主義、形式主義を激しく攻撃されました。

 「ファリサイ派の人々と律法学者たち」が、エルサレムからイエスのもとにやって来ました。この人たちは、エルサレムにあるサンへドリン議会(最高議会)を構成しているファリサイ派グループからの公式の詰問使と言っていいでしょう。イエスは、ある時期まで律法を教える教師(律法学者)と見られていました。ところが、イエスの教えることがファリサイ派の教えと大きく違うことに気づきました。そこで最も中心的な事柄と思えることについて、詰問使を立てて問い詰めようとしたのです。

 ファリサイ派の人たちは中心課題についてズバッと問います。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。問いは「なぜ、昔の人の言い伝えを破るのか」です。その例として示したのが、食前での手洗いです。手洗いと言っても今日のわたしたちがしているような衛生上からの手洗いではありません。食事や聖所・会堂に入る時にちょっと1,2滴、指先を濡らす儀式です。この時代、会食も聖なる行事の1つでした。イエスと弟子たちはそれをしなかったのです。

 イエスの言われた「人の言い伝え」、ここに律法主義の本質があります。「律法」の基本は、旧約聖書に記されている「十戒」です。これが聖書に示されている神の御心です。この神の御心に従って生きる。そのため、ファリサイ派では、十戒・律法を「確実に守る」ことが出来るように律法の周囲にさらに広い外塀を築いたのです。この外塀を守っている限り、律法を守っていると考えたのです。これが「昔の人の言い伝え」です。律法主義とは、神に従うために「律法」を生真面目に厳格に守るために律法の外側に柵を設けて、その外側の柵さえ守っていたら「律法に従っている」、「律法を守っている」ことの証拠としたのです。

 同時に、律法をこのようにガチガチに守っていたら、人々の日常生活はたいへん面倒なものになります。そこで、ファリサイ派では人間中心に律法の適用を考えて外側の「言い伝え」を構築します。律法の外側の壁に最初から大きな穴を開けておくのです。解釈改憲によって海外派兵が出来るようにしたのと同じです。神の事柄が人の事柄に優先します。「これは神への供え物である」と言えば、「父母を敬いなさい」という扶養義務に優先して、父母に渡さないでもよい、としたのです。神を口実にして第五戒の律法を実質的に骨抜きにしているのです。言い伝えは、これだけでなく、一事が万事で「言い伝え」が律法に優先するのです。

 イエスは、このような律法主義に対して、これは決して神の御心ではない、神の御心から遠く離れているとして、預言者イザヤの言葉(イザヤ書29章13節)を用いて攻撃したのです。「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている」と。

 形の上では、神を敬っているように見えますが、実際は自分たちの欲望のために、神を利用しているに過ぎないのです。彼らの敬神は口先に過ぎない。律法を重んじているようですが、その心は神から遠く離れている。人間の教えを神の教えとしている。その宗教儀礼は虚しい。イエスは、このように手厳しくファリサイ主義を攻撃したのです。そして、ここからイエスの十字架への受難の道が敷かれていったと言っていい。キリスト教会だけでなく、人間の世界至るところに律法主義・形式主義が蔓延しています。事柄の本質を見抜いて、神と人とを愛する基本からものごとを考え抜いていくことが求められているのです。