第62回 信じて生きる

聖書=ルカ福音書6章46-49節

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

 

 キリスト教信仰は、ただ神を信じるだけのことではありません。信じて生きるのです。生活が問われます。神を信じることと、神の前でどのように生きるかということがセットになっているのです。人生は建築に似ています。建物の最も重要な部分は土台です。ここで手抜きしたら家屋崩壊につながります。人生という建物を建てる時、どんな土台を据えるかが問われます。イエスはここで人の生き方を、家を建てた二人の人の姿で対照的に示しておられます。

 二人とも家を建てたことでは共通点しています。それぞれ自分の生活を営む場としてふさわしい家を建てました。人はそれぞれ自分なりに人生の計画と目当てをもって生活をします。人生を大切にし豊かなものにしたい、と願って生き働きます。二人とも家を建てた場所がほぼ同じでした。上下水道完備の時代ではありません。水を得られやすい川の畔に家を建てました。同じような環境に置かれていました。家を建てた場が同じですから襲ってくる災難や試練も同じです。どちらの家にも「川の水が洪水となって押し寄せ」ます。現実にこの世界で受ける災難や試練は千差万別です。しかし、試練に遭ったことのない人はおりません。究極的には「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のです。

 しかし、「洪水になって川の水がその家に押し寄せた」時に、それぞれの家屋が辿った結果は異なりました。一方の人の家は「しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」。他方の人の家は「たちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。「引きちぎれ、バラバラに粉砕された」。同じように家を建てても災害に遭った時、結果が大きく異なった。一方は人生の試練に耐え、神の裁きにも耐え神の国へと継続していった。他方は試練の時にくずおれ、折角の人生の努力が虚しいものとなってしまったのです。

 同じように、イエスを呼び求めて生きようとしたにもかかわらず、どうしてこのような結果になったのか。それが、イエスが語ろうとしていることです。二人に決定的な違いがありました。二人の結末の違いは、その土台の違いです。一方の人は「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」。たいへん丁寧なやり方です。深く岩盤が現れてくるまで掘り下げ、岩盤の上に土台を据えた。時間も費用もかかった。しかし、この人は土台を据える作業に時間と費用と労力を惜しまなかったのです。他方の人は簡略に済ませました。

 人生の土台はイエス・キリストです。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(Ⅰコリント3:11)。「この土台の上に」、わたしたちはそれぞれの人生を建てていく。しかし、イエスが語ろうとしているのは、人生の基礎はキリストであるというだけのことではありません。両者は共に「主よ、主よ」と主を呼んで生きる歩みをしているのです。

 「岩の上に土台を置いた人」は「わたしの言葉を聞き、それを行う人」と言われ、「土台なしの人」は「聞いても行わない人」と言われています。ここから何か行うこと、実行、実践が大切だと受け止める人もいます。しかし、単なる実践の問題ではありません。「聞いて、それを行う」とは1つのことです。聞くことと行うことが結びついているのです。キリストに正しく聞くこととキリストの言葉に従って生きることが、「聞いて、それを行う」ことです。御言葉を中心にして信仰生活をするのです。この基本が判らないと「土台を据えた」とは言えないのです。

 キリストの御言葉を聴くことはキリストに従う生活を産み出します。キリストへの服従を産み出さないような聴き方は本当には聞いていない。「聴従」という言葉があります。聴いて、その聴いた御言葉に従って生きるのです。聴くことが従うことを生み出す。キリスト教信仰は生活において証しされる信仰です。信じる信仰が同時に生き方に現れるのです。信仰が人生全体を首尾一貫して貫く信仰です。信仰と生活とが一つに結ばれる。これがキリスト教信仰なのです。