第59回 律法を廃止するためではなく

聖書=マタイ福音書5章17-20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」                   

 

 新型コロナウィルスの感染禍が日本全国に激しく、皆さまもたいへん困難な中に置かれていると思います。困難の中ではありますが、このような時こそ、神の御言葉にしっかり耳を傾けてまいりましょう。マタイ福音書5章から7章末にかけて「山上の説教」とされています。イエスが折々に弟子たちに語られた説教を編集して勧めの言葉として一纏めにしたものと言っていいでしょう。ここには主の弟子としてのわたしたちの基本的な生き方が示されているのです。

 イエスの時代のユダヤ社会はファリサイ派の律法主義によって覆い尽くされていたと言っていいでしょう。イエスは、この律法主義と正面から対決しました。断食をせず、安息日に人をいやし、徴税人や遊女・罪人と言われた人たちと交わり、食事し、当時のファリサイ派や律法学者たちが厳格に守っていた伝統を次々と破りました。このため、イエスは律法の伝統、ユダヤ教の戒律、宗教的秩序を破壊する者と見られていました。

 このようなことを見ると、キリスト教は律法・掟破りの宗教、よい行いなどしなくてもいいのだと誤解されるかもしれません。イエスの時代でも、そのように感じた人もおり、激しく攻撃したのです。それに対して、イエスは明確に教えられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と。

 旧約の律法には、大きく分けて3つありました。1つは、祭儀律法と呼ばれるもので神殿に関わるものです。2つは、道徳律法と呼ばれるもので「十戒」に関わるものです。3つは、司法的律法と言ってその時代に関わる時代限定的なものです。祭儀律法の中心は、罪の贖いに関わる犠牲に関する掟です。イエスは、まさに大祭司としてご自身を神の小羊として献げてくださり、ご自身の民の贖いを完成してくださいました。イエスが十字架の上で息を引き取られた、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ福音書27:51)と記されています。祭儀律法はイエスの十字架において完成・完了したのです。

 また、イエスは道徳律法である十戒破りをしたのではなく、当時のユダヤ教ファリサイ派がしていた十戒を厳格に守ろうとして十戒の回りに巡らせていた細かな障壁を取り除いて、十戒の真の意味を明確にし、ご自身の生涯にわたって律法に従い抜かれました。イエスの身近で仕えていたペトロが、このように証ししています。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(Ⅰペトロ書2:22-23)。

 イエスの歩みは、律法破りではなく、神の御心の表示である律法を正しく理解し、律法を成就された生涯でした。誕生から十字架の死に至るまで、おのれをむなしくして父なる神に従い抜かれました。これによって「律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ書3:21-22)と言われているのです。

 では、わたしたちは、どうしたらいいのでしょうか。わたしたちもイエスと同じように律法を遵守して完成しなければならないのでしょうか。決してそうではありません。主イエスを信じ、主イエスにつながるのです。すると「信じる者すべてに与えられる神の義」が与えられるのです。ファリサイ派の人々の義に勝る義とは、一生懸命に律法を守ろうと励むことによって獲得する義ではなく、キリストを信じ、キリストと結合して、キリストが完成してくださった義を、恵みとしていただくのです。わたしたちは信仰によって、キリストが完成してくださった満ち溢れる義の恵みにあずかるのです。