· 

第41回 慰めよ、わたしの民を

聖書=旧約・イザヤ書40章1-2節

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

 

    いよいよクリスマスです。この聖書の個所は、実は「待降節」に読まれるところです。待降節とは「待つ」時です。クリスマスは、この「待つこと」に意味があると言っていいでしょう。教会の礼拝では、アドベント・クランツと言い1週に1本ずつロウソクに火を灯してクリスマスを迎える備えをしてまいります。皆さまはヘンデル作曲の「メサイア」をお聞きになられたことがあるでしょうか。その冒頭に朗唱されるのが、このイザヤ書40章の「慰めよ、我が民を慰めよ」という言葉なのです。

 わたしはこの言葉を聞くと、「ああ、クリスマスが来るな」と感じます。クリスマスの備えをする中で、この「慰めよ、わたしの民を」の言葉を聞くのです。わたしたちはこの一年、どのように過ごしてきたでしょうか。楽しいことばかり、嬉しいことばかりを経験してきた人はいないのではないでしょうか。わたしたちは個人的にもつらいことを経験し、病も経験したでしょう。わたしたちの周囲には台風などの災害で家族を失い、家を失った人たちもいます。日本の国の歩みも不透明です。偽りが蔓延し、富む者はますます富み、貧しい者はますます奪われて、先行きの見通しは暗く、不安が増しています。

 クリスマスは、このような苦しむ人たちに喜びと解放が告げられる時なのです。クリスマスは決してお金持ちの人が豪華な食事や楽しい時を盛大に催す時では決してありません。悲しみと苦しみの中にある人たちに「慰め」が語られる時なのです。

 この「慰めよ、わたしの民を」の言葉は、苦しみの中にある人たちに語られた言葉なのです。紀元前6世紀頃、旧約の神の民であったイスラエルの人々はバビロンという遠い他国に捕囚として捕らえ移されていました。何十年もの苦役の中で、先行きの見通しどころか、苦しみは増すばかりです。その苦しみの中で預言者の声が響いたのです。第2イザヤと言われる預言者を通して、「慰めよ、我が民を慰めよ」と、神の語りかける言葉を聞いたのです。

 「慰め」と言うと、日本では安直な言葉のように思われます。しかし、ここで語られる「慰め」とは、神が人間の置かれている状況を造り変えてくださり、悲しみを喜びに変えてくださる、神ご自身の働きを根拠としているのです。神が人間の状況を変えてくださる。この希望を語ることが「慰め」なのです。もっとはっきり言いましょう。「慰め」と訳された「ナーハム」と言うヘブライ語は、ホッとする、大きくフッと息をする、安堵すると言っていい言葉なのです。苦しくつらい生活です。背を丸めて生きる。息をすることも出来なかった。その中で大きく息をすることが出来る。それは、神が状況を変えてくださったからです。背中を伸ばし、前を向いて息を吸って安んじて歩ける。これが「慰め」なのです。

 「エルサレムの心に語りかけよ」。ハートに優しく語りかけよ、と言われました。慰めとは、痛む心に優しく語りかけることです。もう苦しむことは終わった。その理由がはっきりと語られます。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」。苦役からの解放の知らせです。咎が償われ、赦しが与えられた。この解放の知らせを聞いて、やがてイスラエルの人々はバビロン捕囚から解放されて、自分たちの国に帰っていきます。

 クリスマスとは、苦しむ者の解放が告げられる時です。わたしたちの咎、わたしたちの罪が赦されて、神と共に生きることが出来る状況となった。罪人の解放の時なのです。神が人となってくださった。それが主イエスの誕生です。この主イエスにおいて、このイエスの十字架によって、わたしたちが神に対して負うすべての罪、すべての咎が償われるのです。救い主が来られたのです。もう、うつむくな。神はあなたのところに来てくださった。クリスマスは、この十字架のキリストの到来が告げ知らされる時なのです。