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第323回 安息日に人をいやす

聖書=マルコ福音書3章1-5節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

 

 今回はマルコ福音書3章1-5節をお話しします。安息日に関わる出来事です。主イエスたち一行は安息日の礼拝のために会堂に入りました。この時、主イエスが説教したかどうかは分かりません。「そこに片手の萎えた人がいた」と記されています。隅にいても人目を引く存在でした。

 「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」。「人々」とは、ファリサイ派の人たちです。イエスはこの人をどう取り扱うか、と注視していました。神礼拝の場にいながらも、心から神を礼拝せず、「何とかして、イエスを訴えてやろう」と、片手の萎えた人とイエスとを監視していたのです。主イエスも彼らの魂胆がよく分かっていました。

 安息日の礼拝、律法の朗読とその解説が終わりました。そのまま帰れば何も問題は起こらなかったでしょう。しかし、主イエスはあえて彼らの挑戦を受けて立ちました。主イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言います。今まで隅で身を潜めていたこの人に、会衆の真ん中に立つことを命じたのです。密かにではなく、あえて公然とユダヤ教ファリサイ派の律法理解に立ち向かったのです。

 主イエスは、周囲にいる人々、ファリサイ派の人々に問います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。安息日律法の基本的な意図、律法の根本的な意味を問うたのです。「彼らは黙っていた」と記されています。彼らは分かっているはずです。

 ファリサイ派も、安息日に井戸に落ちた羊などがいたら、助け出すことは緊急避難として認めていました。しかし今は緊急時ではない。明日まで待っても問題はありません。主イエスも緊急時ではなく律法の根本的問題として問うているのです。

 「イエスは怒って」と記されています。主イエスの「怒り」は珍しいことです。人々の「かたくなな心を悲しみ」ました。律法の条文に捕らわれて、現実に長い間、病み、痛む人たちの嘆きの声に耳をかさない周囲の多くの人々、ファリサイ派の頑迷さに、激しい怒りと悲しみを持っていたのです。

 主イエスは、会堂の真ん中に立っている片手の萎えた人に対して、大きな声で「手を伸ばしなさい」と命じました。彼は、主イエスの言葉に従って腕を「伸ばすと、手は元どおりになった」。周囲の人たちはどよめいた。恵みの出来事が起こったのです。長い間、手が萎えているため痛み苦しんできた。仕事も満足にできず、生活に不自由してきた。しかし今、完全にいやされ、回復し、生きる喜びを与えられた。喜びをもって神を礼拝して生きることができる身となったのです。

 安息日が与えられた目的は、ここにあります。安息日は、すべての労苦や煩いから解放されて、喜びの内に、神と共に憩う安らぎの時なのです。「これをしてはならない、あれをしてはならない」という暗い窮屈な時ではありません。人が痛み、悲しみ、安らぎ憩うことができないならば、その人の持つ課題を1つでも取り除いて軽くし、神との交わりに導き入れることが、安息日の目的に適うことなのです。

 安息日に「何もしてはならない」とは、人をすべての労苦や煩いから解き放つための本来、解放の言葉なのです。これは「安息日律法」だけのことではありません。すべての神の律法の基本なのです。律法は、神の恵みを感謝して喜ぶ生活に導き入れるためのものです。わたしたちは、この視点をしっかり確立して信仰の歩みをしてまいりましょう。